◇コラム・狛江の歴史を斬る vol.1◇
昭和28年に昭和の大合併のもととなる町村合併促進法が施行される。これにより東京都は調布町、神代町、狛江町が古くから関連性を持ったブロックとし、調布都市計画区域として東京都の指導の下、3町の合併へと向かっていた。
このことに異を唱えたのが、当時の飯田 敬輔町長である。飯田町長は調布と合併するより、世田谷区と合併した方が早く水道やガスなど都市整備が進むとして3町合併に反対を表明した。しかし当時の町議会はほとんどの議員が3町合併派で、小川 利太郎議員ら少数が世田谷編入に賛成の態度をとっていた。
この合併問題について狛江町議会では動議が出され「町村合併促進特別委員会」が設置され、この委員会の議論はやはり3町合併が大半を占めた。しかし飯田町長は「町民は世田谷との合併を望んでいる」とし、公聴会が開かれることとなったが、この公聴会でも町民のほとんどが3町合併に賛成で、世田谷区編入を目論んでいた飯田町長は窮地に立たされる。そこで次の策として合併のような重大な問題は、公聴会のような限られた町民の意見だけではなく、広く民意を問うため住民投票を行おうと言う、議会としては断りづらい提案をして、昭和29年3月1日に住民投票の方法を審議するための臨時会を告示した。
ところが臨時会までの間に飯田町長の耳に入ってくる情報は3町合併有利のものがほとんどで、このままでは世田谷編入ではなく3町合併が決定的なってしまう状況だった。そこで飯田町長は臨時会の前夜に奇想天外な行動に出ることとなる。なんと町の公印をもって行方をくらますのだ。臨時会の当日になり、役所の職員も登庁し、議会に提出する書類を用意しようとするが見つからず、そうしているうちに公印もなくなっていることが発覚し大騒ぎになる。議会を中止しようとするが、告示したものを取り消すことは法律上出来ないことが判明し、町長抜きでの議会が行われ、住民投票の件は審議未了となった。しばらくの間、町長が失踪すると言う狛江の騒ぎの中、合併目標の期日が迫り、狛江を除いて調布町と神代町だけで話し合いが行われたが、この時は話がまとまらず一旦合併話はお流れとなる。そのころようやく飯田町長が町役場に姿を見せたのだった。
(参考文献:無法地帯を行く 都政ライブラリー)(写真は当時の飯田敬輔町長)
当時を知る須田 耕作氏(元都議会議員、元狛江市助役)は振り返り、「合併については狛江がもたもたしていて進んで行かなかった。
合併問題自体は町長と議会の議員が取り組んでいたが、町民の多くは興味を示さず、役場の職員の間でさえも話題に上らなかった。」と述べています。
合併問題については「私自身としては狛江単独で市政施行を目指すべきだと考えていた。調布、神代との合併は狛江のまちのアイデンティティが失われることになるので反対であった。」と当時を振り返っています。
Comentarios